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右京小学校が閉校することは、とても悲しく寂しいです。けれども、50周年を迎えることができたので、嬉しかったです。右京小学校のことは絶対忘れません!
『たくさんの思い出をありがとう。』
(令和3年度の右京小在校生・右京地域住民:(U▽T))
右京小の桜を立ち止まって撮影している人をよく見掛けます。それほど多くの人がキレイだと感じてくれたと思うとなんだか誇らしく感じます。毎年、美しい桜をありがとう!
『毎日、学校に行くのが楽しかったです。当たり前のように通っていた学校がなくなるのは寂しいですが、ずっと忘れずにいたいです。』
(令和3年度の右京小在校生:RAI)
娘は入学後、校歌を毎日歌っていました
おかげで私達夫婦もしっかり覚ました
6年前のことですが、時々思い出してしみじみします
『子供たちに楽しい時間と場所をありがとう!』
(50代右京小保護者:sisi)
卒業してもう37年。勉強は苦手だったけれど、授業以外の時間が大好きで、跳ね回っていた右京小。
事あるごとに思い出す。
右京小で初めて出来た友だちの名前を
「一生繋がる友だちが、出来るように」
という願いをこめて、
我が子につけましたヨ!
10周年イベント時、校旗下にコンクリートで固めて埋めたタイムカプセル、どうなったかなあ。開けるとあの頃の記憶が鮮明に戻るかな
『私の性格の基礎となった右京小。ありがとう』
(40代卒業生:N)
私が通っていたのは開校20周年前後の頃ですが、ピロティやわんぱく山、観察池、ウサギ小屋、休み時間にはあらゆる場所を走り回っていました。運動場には回転シーソーが2台あり、大人気だったので休み時間になると同時にダッシュしていたものです。又、運動場にあったタイムカプセル(コンクリートの箱)が気になり、何とか開けられないかと友達と一生懸命持ち上げようとしたことも。教室でボールを蹴って本棚のガラスを割って先生に怒られたのも今となっては良い思い出です(笑)。毎年見事に咲く校庭の桜、毎日給食室から漂う美味しそうな匂い、夏休みのプール開放、運動会前の石ころ拾い、組体操「右京の力」、耐寒マラソン(の後に出てくるご褒美のドーナツとキャラメル)、卒業記念に頑張って彫ったゆずり葉。振り返るとここでは語りきれない思い出がとめどなく溢れてくると共に、右京小学校でかけがえのないものを沢山得たのだなぁと改めて感じました。当時は子どもが減りつつあったこともあり、1学年3クラスが維持されるようPTA活動を通じて市へ要望書を出してくれたと記憶しています。(あの時は色々動いたと親も懐かしんでいました。)
3月末で閉校、「右京小学校」が無くなってしまった、なんて今でも信じたくないし、寂しい、悲しい気持ちでいっぱいですが、親子揃って右京小学校に通うことが出来て本当に良かったし、幸せです。ありがとうございました。
『右京小は永遠です!ありがとう!!』
(40代右京小保護者・卒業生・右京地域住民:ちーちゃん)
大阪から引っ越してきて、2年生から入りました。
4年生までいて、神功小学校に移りました。
今回閉校となる右京小学校と、神功小学校、平城西中学校の卒業生になります。
どこもそれぞれ思い出があり、なくなるのはさみしいですが、心の中に深く刻み込まれています。
ありがとうございました。
『毎年桜並木を楽しんでいます。 右京小学校の生きた思い出として、ずっと咲き続けていてほしいなと思います。』
(50代元在校生:ミラ)
昭和48年4月右京小学校へ着任の挨拶に伺うべく近鉄高の原駅におりました。電車のドアが開き木造の駅舎を数歩進むともう改札の外でした。商店も何もない荒地のような駅前に、さてどっちに行けば良いのか見当もつかず、ブラブラと歩くうちに泥田のような中にポツンと大きな建物を発見しました。
その日から13年間右京小学校で勤務をしました。その間のことは数え上げればきりが無いほどの思い出に満ちています。反面まだ若い新米教師ゆえの失敗も両手指では足りないくらいでした。(今、思うと恥ずかしい限りです)
当時はニュータウンと言うだけあって、何もかもに住民の方々の熱い想いとエネルギーが満ち満ちていました。おかげで児童や保護者の方々にずいぶんと助けられ育ててもらったものです。
私ごとですがこんなことがありました。
子ども同士のドラブルが起こりました。お父さんが来られてお話をする中で、相手の子を話の中に加わらせたいと言われ、深く考えずに同席してもらいました。後日、同席した児童の保護者の方が言われました。「どんな意図があって同席をさせたのか、子どもを守るのは教師たるものの使命ではないのか」と。私は大変なショックと共にとんでもない軽率な事をしてしまった愕然としました。「どんな事があっても子どもを守るのは私の役目」その事を教えてくださったのです。以後、事ある毎に思い出しては退職の日まで大事に大事にして来ました。先日、満開の桜が咲く右京を訪れてみました。50年の重みのあるしっとりとしたいい学校だと改めて感じました。多くの人々が紡いだつながりは心の中にしっかりと根をおろしています。そして、ここは私の故郷でもあるのです。
『多くの人と人との繋がりを財産にしてありがとう』
(70代元右京小教職員:中野俊子)
明るく元気で、挨拶があちこちで飛び交う小学校でした。休み時間にみんなや先生とサッカーをしたことが一番の思い出です。
『四年間ありがとう!』
(令和3年度の右京小在校生)
統合に進んでいく状況になす術が無く、気持ちが沈んだことも度々ありましたが、閉校を迎え時の速さを感じます。
仕事でなかなか休みが取れず、保護者としてあまり学校に行くことができませんでしたが、この2年ほどはコロナでさらに関わりが減ってしまいました。
それでも、子どもたちを今日まで育ててくれた場所が無くなってしまうことがとても寂しいです。
建物は近いうちに無くなってしまうかもしれないですが、小学校の入学式や参観で子どもが手を降ってくれた姿など、きっと何年たっても思い出すことと思います。
『子どもたちを元気に育ててくれてありがとうございました。』
(30代右京小保護者)
子供が楽しく通えました。
『子供達の思い出をたくさん作ってくれて、ありがとう』
(元保護者)
ドッチボールをしたり、サッカーをみんなとできて楽しかったです。
『右京小学校いままでありがとう♡』
(令和3年度の右京小在校生:うきょうっ子)
私は転勤族で、小学4年生の時から右京小に転入しました。
思い出としては6年生の時、校舎の外周を走る「キロマラ(早朝マラソン)」をしたことが印象深く残っています。
当時の担任の先生や同級生とは、今でも連絡を取り合う仲ですので、右京小で過ごした時間はとてもありがたく、感慨深いです。
閉校のお知らせをお聞きして、大変残念に思いますが、右京小で過ごした私達の思い出は、一生のものとなるでしょう。
本当にお疲れ様でした。お世話になりました。
『沢山の楽しい思い出をありがとう!』
(50代卒業生:ハララン)
学年を超えて仲が良く、あたたかい雰囲気の素敵な学校でした。
『親子二世代、お世話になりました!』
(40代元保護者)
親子2代で、お世話になりました。自宅の窓から、すぐ前に見える右京小、休み時間に流れる音楽、チャイム、こどもたちの賑やかな声。すべて思い出になってしまいました。卒業のとき、今やらなければ、いつ、やれる。わたしが、やらねば、だれがやる、と、しきしに、書いてくださった、校長先生。今も、額にいれて飾ってあります。たくさんの思い出を、ありがとうございました。
『右京小 大好き❤』
(50代卒業生・元保護者・右京地域住民:プーさん大好き)
1年生として入学時に6年生の先輩に学校を案内してもらったことが強く記憶に残っています。1年生の途中で引っ越しにより転校したのですが、転校したあとに迎えた誕生日の際は、既に右京小の生徒ではないのにも関わらずクラスから手紙と写真が届いたことが忘れられません。たった半年しか在籍しませんでしたが、小学生ながら人のつながりを感じた期間でした。
『右京小はこれからも私の母校です!』
(20代卒業生:もーりー)
右京小の思いで
1977年4月~1997年3月まで20年間お世話になった、右京小は私にとって最も忘れられない大切な学校です。3人の子どもを育てながら勤め続けることができたのも、多くの皆様のご支援をいただいたからです。
あの頃から右京は地域の文化活動・PTA活動ともに活発で、私は学校と地域が一緒になって子どもを育てることの大切さを学ばせてもらいました。
例えば・・・・
①月一回の土曜日の午後 月刊誌『子どものしあわせ』を使っての読書会。これは保護者と教師が膝を交えて子育てについて話し合う場でした。
②自治会との共催で体育館で「良い映画を観る会」開催。『はだしのゲン』『太陽の子』などの上映を行ったこともありました。
③教科内容ですが、指導要領に縛られることなく自由に自主教材を選ぶことができたのであちこちの研究会に出かけ、「どの子にもわかる楽しい授業」をするために勉強しました。
④5年生のコメ作り体験では、1993年頃保護者の方のお力添えで木津町(歌姫街道沿い)にある田んぼを借りて田植えと稲刈り体験をさせたことがあります。翌年には服部明校長先生のご努力で、北校舎の北側にミニ田んぼが完成し、田植え・水の管理・稲刈りまで5年生は体験できるようになりました。
⑤ある年から右京3丁目の新風堂書店の中田さんに踊りや太鼓の指導をお願いし、運動会で「民舞」を取り入れることができました。『ソーラン節』『御神楽』『エイサー』『花笠音頭』など。踊りの苦手な私も遠く秋田県のわらび座まで民舞を習いに行きました。3月に出会った卒業生曰く「今でも音楽や太鼓を聞いたら踊れるよ。」
私たち教師は【教え子を再び戦場に送らない!】を合言葉に平和教育に力をいれてきました。広島の修学旅行で学んだことを卒業制作に表現した年もあります。卒業制作は6年間学んだことの集大成です。
今、奈良市に対して私が願うことは、校舎と共に卒業制作を壊してしまわないで欲しいということです。壊さずに移転したり、写真にして掲示したりするなど残す方法を考えて欲しいということです。
最後になりますが、右京小に関わってくださった全ての皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。ありがとうがざいました。
『私の人生を豊かにしてくれた右京小ありがとう。』
(70代元右京小教職員:布施田禮子)
一輪車を取るために昼休み走ったこと。
野外活動に行って先生に起きられたこと。
井口のおっちゃんにひょうたんを作ってもらったこと。
うさぎのクローバーを育てたこと。
『人数は少なかったけど、一番小学校が楽しかったです!』
(中学生以上の10代卒業生:マカロン)
休み時間のおにごっこが楽しかった
『ありがとう』
(令和3年度の右京小在校生)
運動場で、満開の桜のもと行われたこどもの入学式は、今でも忘れることができません。
当初、体育館で予定されていた入学式でしたが、新型コロナウイルスの関係で、急遽、運動場で実施するよう市から指示があったそうです。運動場で行えるよう準備をしてくださった後、1学年1クラスしかない学校は、体育館で実施してもよいという連絡を改めて市から受けたとか。先生方はどちらでするか悩まれたそうですが、準備してくださった運動場の一角は、ちょうど桜が満開を迎えてとてもきれいだったうえに、当日はお天気にも恵まれそうだったので、運動場で入学式をすることに決めてくださったと聞きました。桜の花びらが舞い散る中で、とても晴れやかな気持ちで式に参加できたことをとてもありがたく思っています。それだけでなく、当初、体育館で行うために、在校生のみなさんが飾りつけをしてくださっていたのを、そのまま残して紹介してくださったのも記憶に残っています。体育館にも心のこもった入学式会場があり、それを残して見せてくださったことにも右京小学校のあたたかさを感じました。本当にありがとうございました。
『心からの感謝を』
(40代未就学児およびその保護者・右京小保護者・右京地域住民)
50年前には開校を支えてくださった方々がおられ、そこから学校が続いていく間には、児童を中心にいろいろな奮闘やドラマがあったのだと思います。そのときそのときの皆さん、ありがとう。
その歴史の最後になるなんて残念だけれど、私は閉校までの数年間、右京小保護者でした。親として多くのことを学びました。
親も子も右京小により、自分で考えることの大切さ、そして自分の気持ちだけでなく、ひとの気持ちに気づくこと…たくさんの学びを得ました。
先生、お友だち、地域の方々、ありがとうございました。感謝の気持ちで返していけるように、これからも地域の小学生、子どもたちを大切におもう、ひとりでありたいです。
『右京小(にかかわる人たち)と、出会えてよかった!』
(40代未就学児およびその保護者・右京小保護者・右京地域住民:マ)
高の原ニュータウンの中の町の右京小学校に昭和57年4月に転勤してきて、平成5年の3月までの11年間、子どもたちと一緒に学校生活を送りました。この11年間は、私に数えきれないほどのよろこびやいろいろな思い出を与え心に残してくれました。また、たくさんのことも学ばせてくれたんだと思います。
私の右京小での始まりは、ピカピカの1年生の担任でした。その年に開設された「きこえの教室」に在籍するお子さんも私の学級の子どもでした。どんなことにも一生懸命に取り組み、目を輝かせて学習するお子さんでした。私も子どもたちもこの子の暮らしぶりや学び方から一生懸命生きることの大切さを学んでいきました。
一年生の我がクラスは、「みんな対等で、支えあい学び合える場や時間を作っていかなければならない」と強く心に決めたことが今も心に焼き付いています。みんな一緒に遊び、学び合うことを通して、よろこびやたのしさやがんばりを、毎日の暮らしの中で感じ、味わい「人へのやさしさ」「人への思いやり」「共感すること」を学んでこれた2年間でもあったのです。子どもたちとの出会い、そしてお母さんたちとの出会いも私の「たからもの」になっています。
『のぞみあふれるひかりの子』
『いのちたかなるちからの子』
初めての入学式、ピカピカの1年生と私を迎えてくれた校歌です。流れるような美しい詩、それを包み込むように流れる旋律。この校歌は2年間もかけてお作りになったと聞いています。いつまでも、いつまでも心に残ることでしょう。
「きこえの教室」開設2年後から「ひまわり学級」「たんぽぽ学級」「あおぞら学級」と設立されていきました。子どもに合わせての学習はとても大切にされていました。今も心に残っているのは、大きなキャンパスに向かって絵を描き上げていたことです。絵を描いたのは「きこえの教室」の6年生。大きな長い1枚の紙の上で無心に絵筆を動かす子どもたちと先生。どの子もみんな力を合わせて一緒に楽しんで、長い時間をかけて描き上げたと聞きました。子どもってすばらしい力をもっているんだなあと思ったものです。
6年生が卒業に向かって作る「卒業制作の作品」もたくさん残っています。完成した作品を見るたびに大きな感動を分けてもらいました。「卒業制作の作品」はその時の子どもたちにとって「右京小に私たちは確かにいたんだ。」という歴史を作っているんだとの思いが込められているのではないでしょうか。だから、子どもたちの大切な宝物であり、財産になっているのだろうと思うのです。
1991年には「創立20周年記念文集 ひかりの子」を発行しました。子どもたちがありのままの姿でありのままに綴ることを大事にしようと取り組んだのです。370ページを超えるものになりました。発行する中で私たち教師は学ぶべきものがたくさんあったように思います。
右京小学校は
子どもと子どもが響き合っているからこそ
子どもと先生が響き合っているからこそ
そして、教師と教師が響き合って互いにのび合う子どもたちの姿に励まされ成長させてもらいました。保護者の皆様やPTA、地域の方々のあたたかな支えの中で教育活動が進み色々な行事や作品ができたのだと思います。お互いに響き合ってきたからこそ成長させていただきました。感謝の念でいっぱいです。
『「健康ぞうり」私も11年間愛用しました。』
(70代元右京小教職員:原 育子)
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